1985年6月E日
荒れるスズキ氏

今日またスズキ氏にさんざんやられた。バカだのチョンだのズルイだのと、よくあれだけ言いたい放題言えるもんだと思う。今まで何べんもあのオッサンの左頬に右ストレートを決める夢を見てきたが、今日はそれが正夢になる寸前までノーミソの温度は上がった。
小学校3年生以来、20年近くケンカなどしたことのないオレだが、気の長い自分に恥じ入るべきか、感謝すべきか。はたまた気の重い日が続く。
最近ノリさんとよく話をする。あの人が言うには、今までこの店で働いたワーキングホリデイ旅行者たちは、ほとんど全員2、3ヶ月でやめていったという。だが、それはスズキ氏との折りの問題であったからではないか、と思わざるをえない。あれでは普通の人間ならとてもついていけない。
ノリさん自身もここで仕事を始めた当時、店の入り口のまん前まで出勤していながら、今日は帰ろうと何回も何回も迷ったそうである。ドアに手をかける直前、これから始まる地獄を想い吐き気をもよおして、通りの人のいないところまで行って本当にヘドを吐いたことも2度や3度ではなかったという。
ノリさんはスズキ氏と同い年であるため、もしスズキ氏が今のオレに対してと同じような口調でノリさんを怒鳴りつけていたのなら、当然のことながら、彼にはオレ以上のやりきれないものがあったに違いない。陽気な九州男子(ちょっと頼りないけど)のノリさんは多くを語らないが、その心中察するに余りあり過ぎる。
それを想うと、オレの場合など取るに足らないものとも言えるのかもしれないが。それにしても・・・・・。
1985年6月F日
美しいもの

今日、日本から持ってきながら、なんとなく気乗りがせずに残しておいた三島由紀夫の「金閣寺」を読み始めた。相変わらず彼の本は華麗かつ難解だ。読むにつれ、本当に美しいものとはいかなるものかと考えた。
美しさとは、目で見て美しいもの、耳で聞いて美しいもの、鼻で嗅いで美しいもの、食べて美しいもの、触って美しいものという5種類に理屈の上では分類されるのだろうが、永遠不滅の美しさを持つものとは、いったいどんなものなのだろう。
気持ちよい音や音楽も回を重ねて聞くとどうしても飽きがくる。香りのいいものも鼻が慣れればどうということはなくなる。おいしいものは腹一杯食えばもう食べれなくなる。触って心地よいものなどあんまり考えつかない。と消去法的に考えると、目で見えるものの中に永遠不滅、絶対的に美しいといえるものがあるのでは、と思えてくる。
地球のどこかにあるであろう、ただひたすら美しいもの、美しい場所、それらと巡り合えますように。もし巡り合うことができたなら、この数年しぼんだままの自分の胸もまたいっぱいにふくらみ始めるかもしれない。美しいものに感動することが、希望をもたらしてくれるかもしれない。
とりとめもなく、つれづれなるままに、非論理極まる思いがやたらと暴走気味に額の斜め上20センチを巡っていく今日この頃だ。これも季節のせいか。
5月。南半球は晩秋を迎えた。2階の部屋から窓越しに見える、通りのポプラの葉の色が変わりそうで変わらないもどかしさが、
「ここはオーストラリア。オレたちはオレたちのペースでやっているのさ。」
と、オレを諭しているかのようにも見えてくるが・・・。
1985年6月G日
続:美しいもの

昨日の続きをまだうだうだと考えている。
美しい心というのも永遠不滅の美しさを持つものなのかもしれない。しかし心が人の所有物ならば、何かのきっかけでそれを失うことになるかもしれない。それに100%完璧に美しい心を持つ人など、いったいこの世に生存しうるんだろうか。
万が一、そんな人が自分のそばにいてくれたなら、きっと素晴らしい人生になるだろう。だが現実にそんな人が出てきたら、自分とその人との隔たりに絶望感を感じて、反対に落ち込んでいくんではないか、という気がしないでもないが・・・・。
こんなガラッパチをも物思いにふけさせる秋は、この国では実にゆっくり進んでいく。
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